更新が長らく停止してしまいました。訪問しては、がっかりしていた方には申し訳ないです。ウェブ上に情報をアップすることにこそ意義があると信じているものの、問題意識が広がる中で、追うべき対象が広がり、特に一次情報の発信をボランタリーに続けることがつらくなっていました。情報をアップすれば雪ダルマ式に義務感にとらわれ、きつくなる面があります。海外のブログのように手軽にpaypalの寄付システムのようなものが埋め込めて、もし当ブログのテーマに関心のある方々に些少でも応援していただくことが実現できていれば、気持ちも違ったと思うのですが、どうしたらいいかわからない。広告ネットワークの誰かが拾ってくれないものか…。
また裁判の各関係者から見ても、ブログでの発信者は、マスメディアの取材者よりも全く信用されないのだなと感ずる場面に遭遇することもあって、正直しんどい(これまで情報を送ってくださった方には感謝しています)。そして一方で、超長い目で見ればアンチ・スラップ法は制定されるだろうなと感じることもあって、小さなブログで情報を発信し続けることの意味を見失っていました。2ヶ月ぶりに少々理屈っぽくなりますが、アンチ・スラップ法が制定される必然について思うところを書きます。
ウェブ上の情報爆発をめぐるコネタとして、かつてグーグルの創設者のひとり、サーゲイ・ブリンは、地球上に存在するおおよその情報がウェブに収集されるには300年ほどかかると発言したと聞いたことがあります。この発言は逆に言うと、300年の時間があれば、およそ有意味な過去時点の情報は取り出し可能なかたちでウェブに格納されうるということを示唆しています。ウェブが、あらゆるメディアの一次的なプラットフォームになるときは近い(といっても何十年スパンの話ですが)と思われますが、ウェブ上の情報に接していて日々面白いと思うのは、人類の知がリアルタイムで量的にも質的にも、万人に見えるかたちで上書きされていく状況が生まれているということです。
そのような時代における情報の正確性や信頼性はどのようにして担保されるようになるのでしょうか。かつては(現時点でもそうかもしれませんが)、流通経路のボトルネックを握っている“産業としてのマスメディア”が、情報の精度を担保するというフィクションが成り立っていました。そうした時代には、マスメディアが偏った情報を発信したときのための反論権の議論や、発信者の権利に制限を加えるパブリック・アクセス権の議論が熱心になされていました。情報の受け手はそうした権利によって寡占的な情報発信者から発せられるの信頼性に関与すべきだという議論に説得力があったのです。
しかし今はそうした議論はかなり下火になりました。ウェブ上の情報発信者は(情報通信法の制定されていない現時点において)、伝統的なマスメディアであっても、個人のブロガーであっても、フラットに比較されうる状況下で情報を発信できるようになっています。こうした状況下で、かつての反論権の議論とよく似た、それでいて、おもむきの異なる議論が登場してきているのが、注目に値します。
それは「
返信する権利」と呼ばれている概念です。リンク先のエントリー(「
ブログ、そして、返信する権利」)を一読すると、現在フィリピンでは、
「配信または放送事業体により、配信された、あるいは放映されたコンテンツによって、不当な扱いを受けたと誰かが感じた場合は、特定の期限内に、その作品と同じ紙面、または同等の時間で、自らの考えを発表するためのスペースや時間が無償で与えられる」という法案の議論が登場しているといいます。この法案の狙いは一見、伝統的なメディアに対して制約を課すかつての反論権の議論とたいして変わりません。
しかし目新しいのは、この法案はウェブ上の情報発信一般をも適用対象とするらしいことです。この法案が議論されているフィリピンの国内事情の詳細は不明ですが、ウェブ上の情報発信の正当性をめぐる紛争をどのようにして解決するのかという問題は、こんにちにおいて極めて興味深い論点です。
一般的に、紛争が発生した場合、不当性を主張する側が自己の主張を訴えるため、あるいは争点を確認するため、相手の見解を問い質すのが通常のステップです。そうした紛争に訴訟で決着をつけるのは当然あってもいい選択肢ですが、普通は情報発信者に異論でもって応える(返信する)行動を一番にとるはずです。言論には言論で対抗するというあり方です。
先の「返信する権利」の議論は、異論をもった相手の見解を第三者に晒す機会を与えることを情報発信者の義務として課すことになります。異論をもつ者と発信者の情報がフラットに第三者に検証されうるのです。サイト開設者やブロガーは情報発信を行う以上、一定の説明責任を課されるようになる制度設計だと言えます。
ところで話はとびますが、情報の発信者が情報の利用可能性をあらかじめ指定することによって情報共有を促進する
クリエイティブ・コモンズ(CC)という運動があります。クリエイティブ・コモンズのベースにあるのは、
情報をオープンに共有しあうことによって、情報をやりとりするうえでのコストが下がり、次なる新たなイノベーションが起きる、そのことに期待する、という発想だと思います(過去に現CEOの伊藤穣一氏によるプレゼンを聴く機会があり、エッセンスをそう受けとりました)。クリエイティブ・コモンズの運動は、発信情報にまつわるさまざまな権利を持つ既得権者と、せめぎあいながらも、浸透を続けています。オバマ米次期大統領もCCライセンスのもとにサイトを公開していますね。
上記二つの動き、紛争発生時の第三者による検証を促す権利の生成と、ウェブ上の情報共有のための仕組みづくりの運動から連想(妄想?)するのは、なんらかの紛争がおきたとき、ウェブ上に正確で信頼のおける情報を同定するための場が、うまく制度設計すれば、立ち上げることは可能ではないかということです。場といっても、紛争発生時に、まずはここで話し合いをしなさい(返信し応答し合いなさい)といった対話を実現するための公開の場です。そうした場は特定のサイト内を想定する必要は無く、第三者に検証して欲しい紛争が発生中ですとリンクを登録し目印を表示するだけで充分かもしれません。
司法とは、紛争が発生した際、どちらにどの程度正義があるのかを、国家が関与することによって同定するシステムです。そうして紛争が終結したあかつきには、当事者は次なるステップに向かっていくことができます。いわば国家という第三者が関与した“正義の上書き”です。そして裁判とは、引いた視点で見れば、ひとつの“対話”の形式です。
現在の司法システムは、裁判という“対話”に、けっこうなコストを要するシステムとなっています。裁判には、弁護士ら法を扱う専門家の助けを仰ぐのが、慣例となっています。しかし、はたして我々はギルド化している法律専門家の助力がなければ、“対話”ができない存在なのでしょうか。
クリエイティブ・コモンズは文化やアイデアを共有するための発想ではありますが、ウェブで情報が共有されイノベーションに向かう状況と、紛争発生時の対話の実現から解決へと至る道筋は、とてもよく似ています。ウェブの発達は、情報をやりとりするときのコスト(transaction cost)を下げることに多大なる効果を発揮してきましたが、ウェブは紛争解決を目指した“対話”のコストを下げることにも貢献できるのではないでしょうか。
幸か不幸かリアルな社会では、社会的な強者と弱者が存在します。社会的な強者とは強い情報発信力をもつ者、社会的な弱者は弱い情報発信力しかもたない者と言い換えることが可能でしょう。
SLAPPとは、紛争発生時に、現行の司法システムにおける“対話”のコストを悪用した、情報発信弱者の疲弊を狙った訴訟だと解釈することができます。このようなコストは、ウェブ上の“対話”によって乗り越えられる環境は、技術的にすでに整っています。問題は、見解の相違や訂正したい意見があっても、現状では、第三者に見えるかたちで情報発信できるような制度がないということです。だからこそ、先の「
返信する権利」の概念が重要になってくるのです。
公開の場で低コストで“対話”が充分可能であるにもかかわらず、そうした手段をとらない姿勢はおかしいと気づくことは、SLAPPを違法と認定するアンチ・スラップ法の法理に結びついていくはずです。我々はウェブを活用し、社会をオープンにすることによって、紛争発生時に何が正義であるのかを同定するためのコストを、いま以上に下げることができるのです。(溜まってた考えを書いたら長すぎ…)